仕事で書いたメモ帳の裏

たまに考えたことを、考えたままに書くだけ

多様性はコストとリターンで決めていいのか

読んでいて心がざわついた。

blog.tinect.jp

 

というのも、今日、多様性というのは色々なレベルで使われる。民族・宗教・LGBTでも語られるし、あるいは個人の好き嫌いのレベルでもあるかもしれない。それ故に、すべての多様性がコストとリターンで決まる、と一瞬読めてしまうのは少しパンチが強すぎるだろうと思ったからだ。(書いた方がそんな意図を持っていると思っていないが)

 

そして、民族や宗教での多様性の話と、記事内で出てくるようなクレーマー対応の話は一緒に語れないと思った。だから、雑にでも分けて考えてみる。

 

 

国際社会や国家のレベルだと、多様性はコストやリターンでは評価できないとしたほうが安全

このレベルでは、基本的人権といった理念や、権力に対する制約である憲法といった形で、多様性を保護することが社会実装されている。

例えば、

  • 国民の過半数の賛成があろうと、特定の人種を排除してはいけない。これを認めると、近代ドイツにおいて少なくとも形式的には多くの国民の指示を得ていたナチスによるユダヤ人迫害を容認することに繋がりかねない。
  • 宗教指導者がどう考えようと、異教徒や無神論者を排除してはいけない。これを認めると、過去のカトリックによるプロテスタントの迫害、現代においてはイスラム教の排除に繋がりかねない。

というもので、如何に正当な手続きに選ばれた権力であっても(或いは王権神授説に基づく専制君主でも)特定の人々を排除することは、現代のほとんどの国で許しておらず、基本的にここへの異論は少ないように思える。

これを取っ払ってしまうと、近現代で起きた戦争や紛争、虐殺が再燃してしまう可能性があり、事象個別のコストで都度判断とはならない。(人種Aを滅ぼすコストは大きいからNG、しかし人種Bの殲滅は簡単でリスク低いからOK、とはならない)

このブログでは連続殺人犯が例としてあがっているが、

例えば、わかりやすいところで言えば

「連続殺人犯であっても、訴追する必要はない、殺人衝動を認めようよ」

という人はごく少数だろう。

なぜなら、彼らを認めるコストのほうが遥かに高いと感じるからだ。

殺人を含めた自由な暴力を認めると、特定個人や人種・宗教の自由な抹殺も認めてしまうことになるから、やはりコストで語るのは違和感を覚える。

一方で、「戦争や虐殺により社会が不安定化する」というのをコストと呼ぶ、という意見もあるかもしれない。しかし、この"コスト"を上回るリターンはちょっと想定できない。なので、コストと呼ぶにしても値は極大であり、評価指標としては役に立たない。また、「コストとリターンで判断した結果」と呼んでしまうと前述のような個別判断を誘引しかねいことを考慮すると、やはり「コストやリターンでは判断できない」としたほうがいい。つまり、理念とか普遍のルールという言い方になる。

 

あえてコストと呼ぶべきものがあるとすれば、異質な人々と共存するということは、何かお互いに重要なことを決める時は彼らと話し合う必要があるということであって、この"異質な相手と議論する"というコストを支払う義務が全員にある、という文脈だろう。これは、自由民主主義に沿って(時にもどかしい)議論をする、ことで支払われている。

 

 

団体や個人のレベルでは、余裕の有無にかぎらず、コスト&リターンで決めるべき。ただし、前述の国際・国レベルの多様性保護に反しない限りにおいて。

引用元のブログでは、クレーマーやモンスター顧客の例が上げられているが、個別判断で良いだろう。「どんな客であれ、すべて尊重せよ」を正当化すべき理由は見当たらない。そして、正当な理由がないのに制約を課すのは、制約を無限に作り出すことに繋がるが故に、不合理だろう。「苦情は苦い良薬の如し」と信じられるなら対応すればよい。

個人においても同様だ。文脈の読めないユーザーからのクソリプを相手にしても得られることは小さい。

 

一方、企業において多様性が尊重されているのは、それが企業にとって有益だと判断されるから、だろう。別に余裕があるからではない。余裕がある企業が多様性を尊重しているように見えるのは、大企業や安定企業にこそ、多様性を尊重すべきメリットがあるからだ。

大企業や安定企業は、長期的に存続していく可能性が高い。その時、企業にとって一番のリスクは、変化できずに時代から解離することや、同質性が進むことでイノベーションを起こせなく起きなくなることだ。だから、敢えて一定のコストを承知で多様性を取り入れることで、組織に「ゆらぎ」を生み出そうとする。

およそイノベーションは、異質なヒト、情報、偶然を取り込む ところ に 始まる。

~中略~

(日本軍では)権力を握った者のみが、イノベーションを実現できたので ある。ボトムアップによるイノベーションは困難であった。

「失敗の本質」 より抜粋

多様性はメリットである。かつてWW2にて、日本軍は多様性を排除した組織にしてしまい、戦争という有事に対応できず失敗した。ただし、これは「多様性ならなんでも」を意味はしない。軍隊の例をあげれば戦意不足の指揮官は罷免せねばならないだろう。今日の企業でも同様で、社員に対して多様性と同時に特定の価値観を推奨している。

・私たちは、すべての個人を尊重します。
・私たちは、個人の専門的能力に価値をおきます。
相互協力を信条とします。
 |P&Gの行動原則|より抜粋

これに対し、ベンチャーが一見多様性を重視しないように見えるのは、企業の安定性が確保されていないので、遠い未来のことなんか考えても仕方ないからだ。ただ、明日に良質のアイデアを生むための異質さは歓迎しているように思える。少なくとも私の周囲では。

 

最後に

こんな政治的なことは始めて書いた。この話題は非常にセンシティブだ。ここに書いた話には深刻な欠陥があるかもしれない。指摘があれば修正したい。

ところで、クレーマーやモンスター顧客の下りをみて、オルテガの「大衆の反逆」を思い出した。ここでの「大衆」とは正当な理由なく人を暴力で従わせようとする人たち、と定義されている。

はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現われたのである。これは新しい事実だ。理由をもたない権利、道理のない道理である。この新しい事実のなかに、私は、資格もないのに社会を支配する決意をした新しい大衆のあり方の、もっとも顕著な特色を見るのである。

「100分de名著オルテガ『大衆の反逆』」より抜粋

これについてもいずれ書いてみたい。

 

 

追加 20200109

この内容はまだ薄い、しかし後日の反省のために残す